急に怒鳴る人
すれ違いざまになにかをぶつぶつ言っていく人
公衆の面前で大きな声を出す大人
すべて、自分に原因があるから、自分の顔が言われやすい雰囲気を出しているから「そういう場面」に出くわしたりするのだろうと思っていました。気づけばオドオドして「今正面からくる人は、すれ違いざまになにか言わないだろうか?」と身構えたり「会計の店員が私の順番の時に挨拶もなく前の人とは違う対応をしてきたらどうしよう」と不安に襲われていました。
そのため、馬鹿にされない、舐められないために服装の勉強をしたりメイクなど外見から変と思われることがないようにして、歩く時は逃げるように足早に歩き、用だけ済ませたらさっさとその場から立ち去る・・ということをしていました。
最近、読んだ本がありまして「実は目立たない存在の方がお得かもしれない」と気づきました。
今までは、人にバカにされないように、わかりやすく言うと個性的な服装ではなく公務員が着るような服、といったらいいのでしょうか。オフィスできるような服をプライベートでも着ていました。上はシャツかカーディガン、下はワイドパンツなど。
確かにそういう格好も目立たないかもしれませんが、着ている私はとうに飽きていました。こんな服着ても別に無職だし(無職前もそういう格好でした)、そもそも好きな服ではなかったんです。無難な服、といえばわかりますでしょうか。
「目立たないほうがお得かもしれない。なぜなら何かあったときに逃げられるから。」
この言葉にちょっとひかれて、実験しました。
まあないとは思いますが、目立つ格好をして群衆にまみれているとき。誰かに追われる時って地味な格好をしている方が逃げおおせる確率はあがります。顔も、覚えられていない場合があります。「あれ、あの人の特徴ってなんだっけ?」みたいな。
目立つ服を着ていると、「ああ、こういう服を着ていた人ですよね?」と結構即バレします。
(なにか悪いことをする予定はございません(笑))
ということで、もう飽き飽きしていた服は丸投げし。服装はゆるっとしたものにして(俗にいうナチュラル系)リネン素材のパンツにTシャツ。そして前から気になっていた花柄のワイドパンツや、前から欲しかった革バックがメルカリで売られていたので手に入れてそれをもって出かけるように。
前より目立ってる!と内心思っているのですが、今着ている服の方が断然着心地も見た目も色も好きなのでいい感じですし、髪の毛だって毎日洗っていたのですが、三日洗わないという挑戦もしてみました。(汚い!)しかし、髪の気はまとめればいいし、誰にも会う約束がないので洗わなくても問題はなし。
なぜか、逆に目立つ方に走っているような気がしていましたが、自分が好きなものを着て歩き髪の毛を洗わないことをよしとすると、「意外に大丈夫だった」と気づきました。
そして、一番の変化は「あれ?そもそも怒鳴ったりいきなり大きな声を出したり、急にぶつぶつ言ってくる人の方がおかしいんじゃないのかな?」と思ったことです。
私は自己肯定感がバリバリ低く、他人からの評価がすべてでしたので服装、話し方諸々含めて馬鹿にされないようにと一生懸命武装して生きてきました。
なので、理不尽なことを言われてもいつのまにか「自分に原因がある」という考え方になってしまっていた。
でも、「目立たないほうがお得」と知り、それを実験してみたら逆に自分の好きなようにしても大丈夫だという経験を通じ「自分軸」というものがかすかにできたのかと思います。
今まで呼んできた本、200冊を超えるだろう自己啓発や心理学系の本、大体同じことをいっているのですが、「精神的に落ち着いている人は穏やかでいられる」「人には攻撃したりしない」です。それに本当のお金持ちって余裕があって、散財もしないし人に対しても尊敬をもって対応してくださる。そんなイメージがあります。実際に、人におごってあげたり寄付をしたり、余裕がある。
なんだ!じゃあ自分じゃなくて「いう人」相手にも問題があったんだとやっと気づいたんです。
そんなの今更きづくなんておかしいよね、と言われるかもしれませんが自己肯定感が低いと全部が自分のせい、そして昔から愛情を親からもらえていなかったという思いがあるので「愛されない自分が当然」という考え方がしみついている。何か問題があっても「愛されない自分」に原因があるのだと思い込んでしまうのでしょう。
子育てや介護、仕事上の人間関係などなど、数えきれないほどのストレスで余裕がない時って些細なことでもいらいらします。でもよく考えたら、歩いているだけで知らない人に不快なことを言われるってあんまりにないです。うん、ない。たとえ言ってきた人の背景に、自分には計り知れないような大変な事情が隠れているとしても、ない。
もしかしたら、その人の親が危篤なのかもしれない。
長年かっていたペットが死んでしまったのかもしれない。
でもそれは、その人の問題。
まして他人。
友人なら私だって慰めますし話は聞きます。
しかし、あくまで他人。
でも、落ち込んでいて自信がなかった私の世界ではそういうのは「あり」だったんです。
一か月ほど、鬱っぽくなり「いつこのわけのわからない日々が終わるのだろう」と私が思っていたように、もしかしたら他の人も自分と同じように「不安」を感じて生きているのかもしれない、そう、通りすがりになにかを言ったり、ぶつぶつ言ってきたり大きな声をだしてきた人たちのように。
会社にいるちょっと困った人や、めんどくさい人のように。
そう考えたら、「相手は敵」じゃなくて「もしかしたら自分と同じ不安を感じている人」なのだととらえることができました。
ああ、あなたも不安を感じているんですね、と。
私と一緒。
じゃあ、みんなも私と一緒じゃないか、と。
そう思えたら自分の中の孤独が少しだけ和らいだような気がしました。
(かといって助けようとか、仲よくしようとは思いません。)
二択だと苦しい。
三択だとすこし余裕ができる。
物事を、人を、「すきときらい」の二つにしか分けられなかったときは、いい人以外はすべて敵でした。当然、気づくと周りには敵がたくさん。私にとって好きという判断基準は、価値観があって話がおもしろくて長続きする人で細かいことを気にしない人、というなかなか高い理想がありましたから。嫌いな人の方がどうしても多い。
よくあるなんとか診断って、「まあまあすき」「すき」「どちらでもない」「きらい」とか結構選択肢が多いです。
だから、物事を見る考え方見方も、このなんとか診断みたいに四択とか三択にしてしまえば結構世界は変わって見えてくると思いました。
自分を許すこと、そして考え方を変えること。
そして、生きることを真剣に考えすぎないこと、楽しむこと。
これがこれからの自分の人生の課題だと思っています。
そうして、考え方を変えてみると毎日同じ時間に会社に通って仕事をするという働き方も、当たり前ではないという気もしてきました。
世の中には、親の遺産で暮らしている人、株の利益でもうけている人、働かないでも生活できる環境のある人たくさんのいろいろな方法で毎日を生きている人たちがたくさんいます。
自分にはそういう生き方はできないですが、(なぜならお金がないから)今まで当たり前に思っていた「会社に勤めて働くこと」ということに対しても疑問を持ちはじめました。
自分の中で当たり前だと思っていたことに「それは本当か?」と意識を向けてみると、違う視点も見えてきて面白いと思いました。
妹が統失と診断されているので読んでみました。うちは症状は軽い方ですが、とても勉強になりましたし、いろんな意味で尊敬と勉強させられた一冊です。包丁のくだりとか「殺してやる」とか、身に覚えがありました。図書館においてありました。
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