一番好きな呪文

ワーク

「自分には愛はない」

この呪文が大好き。

偽善で生きている自分を救ってくれた言葉です。

これも大嶋先生の本からの知恵です。

中学の頃、いつも一緒にいた同級生に(決して友達とは書かない)「偽善者!」と公衆の面前で怒鳴られ怒られたことがある。それが最初の楔になった。

今考えると、人を助けることで自分の中にあるなにかを埋めようとか、存在を肯定したいだとか、当時親の愛情を受けられない自分がとっていた苦肉の行動だったと思う。

隣の県に一人暮らしをしていた同級生(決して友達とは書かない)のアパートに遊びにいったとき、近所のスーパーで食材を買ってあげた。なぜなら、コンビニ弁当ばかり食べていたようだったから。まあ、彼女にしたら大迷惑だったろう。自炊をしないから、コンビニ弁当なのに、食材を買ってこられたら食べなくちゃいけないし手間が増えるだろうから。

自分の行動は確かに、おせっかいで、友達ではなく「お母さん」目線での行動だったと反省はしている。

そのときも、何か否定されるようなことを言われたけど、覚えていない。その人とはもう付き合いはない。

ある時は電車で、小銭を落としてしまった視覚障害の方がいた。

電車はまだ発車前、席にはたくさんの人が乗っていたけれども、一番先にその小銭を拾ったのは私だった。なぜその人が視覚障害者かとわかるかというと、白い杖をついていたから。そしてサングラスの高齢だった。さすがに、ばらけた小銭を拾うのは大変だろうと拾ってその人に渡してやった。けれども、小銭を拾いその視覚障害者の方の手に小銭を押し付けるときには、なぜか自分が悪いことをしているような気持になった。どうしてなのかわからないけれども。だから、その方に小銭を渡す動作も、なんだか恥ずかしいことをしているような感覚になったので、押し付けるというような意味合いの渡し方になってしまった。

その日も、くだんの同級生と一緒にいた。小銭を拾い、元の席に戻るとその同級生にまた何かを言われた。はっきりとは覚えていないけれども。とにかくなにか怒っているなという感覚を受けた。「偽善者」とはっきりは言われないけれども、私の行動がお気に召さなかったんだろうということがわかった。

それがもう何十年とたっても消えない記憶として頭に残っている。

それからも、良かれと思ったことをして生きてきた。でも、それをよしとして受け取る人が少ないことに気づいた。あわよくば、「手を出したのだからあなたがやりなさい。」と仕事を押し付けてくる人もいた。「前も手伝ってくれたから今回もいいでしょう。」とか「もうそれはあなたの仕事でしょう。」とか。

社会に出てそういうことにあってから、私のしてきたことはすべて無駄で、意味のないことで本当に「偽善者」という形のものだったんだと思い込む。「いい人」に見られたいためのパフォーマンスでは?と。それも半分正解だった。

それから人を助けることに抵抗がでるようになった。

同じくして、自分はやさしい人間ではないと感じるようになる。

人を助けて「ありがとう」と言われる人が目につくたびに、「自分はやさしくない」と思うようになった。助けたほうがいいかな、とか思っても「どうせまた偽善者とか言われて、余計なことがふえるだけかも」と思い誰かが先に動いてくれるのを待つようなった。あるいは、見てみぬふり。

そんな些細なことで日常をかき乱されながら、どんどんたまっていく「自分はやさしくない」という澱が心に溜まっていった。

母の目線で行動しているのか、それともこれはいい人に見られたくてしていることなのか?境界線がとか、なんのために人に優しくするのか?もし優しくしても断られたら?気持ちが悪い人!と言われたら?どんどん深みハマる。

すっかり「優しくない自分」につかってしまい。果ては困っている人を見ても、わいわい騒いでいる人たちをみても「私には関係のないこと」と風を切るように、逃げるようにその場から立ち去り何も存ぜずで通すようになり、周囲からも「関心のない人」「情のない人」というニュアンスで揶揄されるようになった。

そんなときにこの本にであった。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

「与えあう」ことで人生は動きだす [ 大嶋信頼 ]
価格:1,650円(税込、送料無料) (2025/4/9時点)


「自分には愛はない」

唱えると、「ああこれでいいんだ」とまるでもともと自分の体に合ったもののように溶けるように入ってくる呪文。

唱えることで、「もうすでにある」「ないからどうしようもない」といい意味で手放す、あきらめることが悪いことではなく、当たり前のことなんだと思える。

「自分には愛がない」から、困っている人を助けることはしない。だって、ないんだからしょうがないじゃない?自分には愛がないから、人にやさしさを配れるようなことはできない。

けれども不思議なもので「ない」ということにすると「じゃああるよね」という気持ちになる。「自分には愛はない」から、これはやさしさではない。と自分に言い訳をすることができる。

これまで「偽善者」と言われないために、優しくすることをやめた。気を遣うことをやめた。でも「自分には愛がない」のであれば、今しているこの行為は「愛ではない」。だから、してもいい。結局それが、相手からしたら「愛=やさしさ」なのかもしれないけれども、「自分には愛はない」からそれは自身にとっての愛にはあてはなまらい。

それが無償の愛。

これが、「与える」ということなのかとわかった。余っているから与える。普通、少ないものを人に与えようとは思わない。明日食べるものに困っている状態で貴重な食材を、それでも人に与えようとするのは「偽善者」なのか?有り余る食材を人に食べきれないからといって振舞うのは「与える」「おすそわけ」。余っているからあげる。優しくする。もらった方もうれしいし、自分もうれしい。

少なくても人に与えるのが無償の愛じゃない?とも思うけれども、神さま仏様ではないのでとりあえず割愛。神様仏様は食べなくても大丈夫でしょう。それに、自分の身を守るのも人間生きている限り自分に果たす最低限の役目でしょう。

「偽善者」は、ないのに振舞う。それはなぜか?愛されたいから。

「ない」ということにすると「ある」ことになる。

それから、この本の中にはワークも書かれていたのでそれを実践してみたい。いつもやろうと思って忘れるから。

コメント

タイトルとURLをコピーしました