「自分ってなんにもないよな~」と思うことがあります。
今、無職で仕事もなかなか見つからず、2社からお断りを頂いているものなのでなおさらそう思います。
そんなときに、はぁ、と思って読むと落ち着く本。
それがこの本です。
作者が単身、リヨンに行く話です。
50代で仕事を辞めて、「そうだ!リヨンに行こう。そこで観光じゃなく、生活をしてみよう」とあれこれ奮闘する話です。
しかも、驚きなのが英語が話せないということ。(私からした十分話せると思うのですが・・だってボンジュールくらいしかフランス語はわかりません。ボンジュールだけで買い物はできない・・)
そんな状態で、マルシェに行って買い物したり(市場みたいなもの)やっぱりというか、アクシデントに見舞われながらも1週間ほどの滞在をするというお話です。
わたしも退職する前から、「丁寧に暮らす」という生き方に興味がで始め、いろいろと参考にしているのですが、はじめ「丁寧に暮らす」というのはとてもモノにこだわりを持ち、かつシンプルに身軽にそれでもこだわりをもって暮らすということだと思っていました。
そして、その「物=道具」が、こだわりがあるがためにめちゃくちゃお値段がかかるということにへきえきしてました。ああ、なんだやっぱりお金かぁって、ちょっとひがんでましたね。結局、資本主義ですよねぇなんて。
幸せには、お金、かかるんですよねぇって。
たしかに幸せには、お金がかかるって思ってました。何でも買えるし、いいところにも住めるし。嫌なこともお金でたいていのことは解決できますよね。
しかし、最近お金がなくても幸せに暮らせるのではないのか?と。仕事が見つからず、求人はある、それなのにどうして私は応募したくないんだろう?と考えていたら、「惨めな自分を他人に見られたくない、知られたくない」という思い込みがあったんです。
あくまで自分の価値観として、医療系・福祉系・金融関係。それらに携わっていればよし。それ以外を敬遠していましたし、地元なので知っている人に会う確率も高くてそれが嫌でした。(嫌な奴でしょ)
そしてもう一つ、「すごい人」になれば私を傷つけたり馬鹿にする人はいなくなるだろうとずっと思い込んであれこれと知識や資格、行動をしてきたということにきづきました。だから、参考書を買ったり通信教育にお金を払ったりお金が出ていきました。
だから、知識、資格を身に着ける→すごい人になれる→お金がかかる=幸せにはお金がかかるという公式が、自分の中で形成されていました。あがきつづけていないとすごい人になれないという、恐怖・不安の中にいたのです。
「すごい人」になったからと言って、傷つけられない馬鹿にされないなんてそんなのあるわけないんですよね。
私は生活の中で、洗濯物を干している時間が一番好きです。
洗濯=生活をしていると、「今日も一日を刻んでいる」という生きている実感とでもいいましょうか。自分の時間を過ごしているという感覚を感じるんです。
さっきの本の作者も作中で言っていました。
「私が毎日していることをリヨンでもやろう。私が毎日やっていることってなんだろう?そうだ生活だ。朝起きてヨガをして、お昼を食べて仕事をして寝る前にお風呂に入ってお酒を飲んで寝る。そんな毎日していることなら、リヨンでもできるだろう。」
こんな感じのことを言っていました。
今私はなんにもなくて、社会的に居場所も需要もありません。できることも限られていて、スキルもないし経験値もない。年齢だって制限にひっかかってしまう。
そんなわたしができることといったら洗濯、それからゴミ出しと掃除。それから淡々と目の前にあることをやることくらい。あるものを使うぐらい。
今は社会に対してなんにも貢献できていない時期ですが、「今は充電中」ということで、いつでも行動できるようにコツコツと目の前の生活に向き合っていきたいと思います。
いつのまにかいろいろな情報に惑わされ、足りないもの、できていないことにばかり目がいってしまう。ネットを除けば、きらきらと成功をしている人たちがとても眩しく見えて自分は何もできない人間だと、思わされてしまう時もある。
でも、その成功者も「生活」は毎日しているんですよね。そう、同じことをしている人たちなんですよ。みんな同じことを毎日繰り返して生活をしている。
ならば、それでいいと思うのです。
生活でもなんでも、今できることをしているだけでOKだと思うのです。もちろん、人と比べて「あっちの生活の方が幸せそうだ」なんて思っているうちは幸せには絶対になれないということはわかる。
でも、比べてしまうのが人の性・・・。
自分の生活を思う存分充実させて、「これが私の生き方!」と人と比べずに自信満々に誇りをもっていえるようになりたい。
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