やっとここまで来た。
でも大嶋先生の本ってとっても読みやすいしおもしろい。何度も何度も同じことをいうのはきっと、そうすることで無意識に語り掛けわかりやすいようにするためなんだろうと思う。たしか本人もそうおっしゃっていた。
今までいろいろな方法を試してきた。
確かに変わったことはある。前よりもよくなっているような気はする。具体的になにがどうかわったの?と聞かれると、困る。そう、劇的にかわったことがないので説明できないんです。でも、私からしてみたら、確かに変わった。見た目は何も変わっていないけれども、脳が前に比べて静か。だっておっさんの愛がないだけでも十分に違うんだもの。詳しくは過去記事にあります。
なんにもしてないのにせわしなく動く脳みそのせいで、「あれも足りないこれも足りない。あの人がムカつく、自分はなんて不快な存在なんだろう」そんな焦燥感におそわれることもなく過ごすことができるようになっていた。けれどもなんというか・・・根本的に?日常における自分の反応は同じだった。現実だって何にも変わっていない。
相変わらず笑えないし、お金持ちになったわけでも友達が増えたわけでもない。人の目線は怖いし、話もかみ合わないような、とにかく自分は異物。
人の目を見るのが怖いとか、あまり関わらないように極端に距離をとったり。相手の言葉尻が気になってしまうとか、やっぱり不快なことがあるとしばらくそのグルグル思考にとらわれてしまうとか。長年の癖もあるけれども、どうもいまひとつ。みんなと一体感を感じられないような。自分だけが浮いているようなそんな感覚が消えなかった。
これを一言でいうならば、他人の気持ちを勝手に考えるということがやめられなかった。
それと同時に、どうしてこの人たちは、いつも平気な顔をして平和そうにしているんだろう?焦ったりしないんだろうか?私はいつも足りないものばかり見つめていつも焦っているのに。どうしてニコニコと楽しそうに生活をしていられるんだろうと思うとどんどん彼ら、周りとの差を感じ一体感を感じられなかった。すると焦る。異物感も増す。
自分と他者は全く違う。そりゃ趣味とかテレビとか話が合うというのはあるけれども、根本的になにかが違うという壁、のようなものがあって一体感みたいなものを私は感じることができないでいた。表面的には問題ないように思われているらしい。けれども私の中では常に問題しかなかった。
そこでトラウマちゃんを読んだ。簡単にいうと、(簡単にしか言えない涙)心の傷が処理しきれずに脳の中をさまよい歩いているので、それを刺激されるようなことが起きるとその時の感情が一気に膨れ上がり自分じゃなくなってしまうというものだった。
例えば、子供の頃に包丁を使ってひどく怪我をしたとしよう。その時親にとても怒られた。こんなに怪我をして血が流れているのに、痛いのに、お母さんはそんなこと気にしないで怒鳴りつけてくる。だから、本当は痛くて痛くてしょうがないのに痛くないふりをする。平気なふりをした。でも心の中では「どうしてお母さんは私がこんなに血を流していたがっているのに無視したんだろう。お母さんは私のことを愛していないんだ。」ということがあったとする。
それが大人になってから。同じようなことが起こる。体調が悪いせいで失敗をし上司に呼び出されて怒られた。それがきっかけで、昔のことを思い出す(自動的に。なぜなら心の傷だから管理できない。脳が勝手にしていることだから制御できない)。「私はこんなに我慢しているのにどうしてこの人は私のことをわかってくれないんだろう。」と怒りが湧いてくる。そして「この禿野郎!」とか言ってしまったり、あるいはふてくされるような表情をとってしまう(解離)。そうするとますます上司からの評価はさがるし、自分も「なんてことをしてしまったんだろう。」と、暴言を吐いた後で反省し自己責任のループに入る。
で、グルグル悩むけれどもやっぱり最後には、自分のことをわかってくれない上司が悪い!あいつが悪だ!とか、この職場の環境があっていないんだ!ということになる。そうしてますます自分の中で怒りが膨らみ、周りは敵だらけということになるのである。誰も私をわかってくれないという孤独もあり発作を起こすから。それに解離しているときは記憶が抜け落ちているので、自分が何をしたのかということが記憶にないときもあるらしい。ということは、下手したら上司に「禿野郎」といっても忘れてケロッとしていることがあるということなのか?だとしたら怖い。
この解離というのが興味深かった。思い出したのが学生時代のことだった。
自分が自分じゃなくなる。目から光がなくなるという感覚がとてもわかる。学生のころ私はずっとそうだったんじゃないだろうか?解離を起こしているときの記憶は残らないらしい。だから反省のしようもない。学生の頃いつも泣きながら自転車をこいで帰っていたっけな。泣きながら雨に打たれて自転車をこいで帰ったあの時の記憶だけは今でも残っている。とてもとても惨めな、でも大切な記憶である。なぜ、そのシーンだけ覚えているのかと考えると自分の気持ち「悲しい」「惨め」という気持ちを感じていたからだと思う。逆に言えば、感情を感じることができない状態では記憶は定着しない、ということだろうか?
そうすると、解離していたおかげで、あのつらい学生生活を送ることができたという見方もできる。
ハッキリ言って学生時代の記憶がない。特に中学高校と。その時期、ちょうど弟が不登校になり、家が荒れた。朝から母は泣きながら自室に走り、姑はそんな様子を見て怒る。しまいには占い師などまで手をつけた。「このお札があれば」などそんな怪しい話もあった。今と違ってまだ精神的な疾患に関しては知識がない時代だったから、相当理解が得られるような状況ではなかった。私も、「不登校の姉」としてみられたし、両親の愛は、弟へと自然と向かう。長男の弟はなによりも大事だったのだ。そんなことがもう20年以上つづく。私も当時中学だったが、その多感な時期に親に甘える、頼るという行為はできなくなり、愛をもらうために行動するようになった。「自分はなんのために生きているのだろう」そればかり。もちろん、そんな状態でも学校へ行く。親を困らせたくないから。しかしいつもどこか他人事。誰とも会話せずただ行くだけの毎日。そのうちリスカをするようになるのだが。
リスカをするのは生きるため、と昔からぼんやり思っていたけれどもそれはあながち間違っていなかったらしい。生きている感覚を、切った瞬間に感じることができていたから。(痛みの力)どうも怒りで脳がマヒしてなんにも感じられなくなる状態がMAXとすると、リスカなどの自傷で自分を傷つけることにより感覚を取り戻すという手法らしい。この内容にものすごく共感を覚えた。そう、生きている感覚がなかったから切っていたの!頑張ろう!と思えないときに根性焼きみたいに切っていたけれども、それもある意味、切ることで脳に刺激を与えて自分の中に頑張ろうという気持ちを感じさせるためにやっていたことだと思う。
話がそれた。
とにかく、心の傷が原因で解離して、「今ここ」にいる感覚が失われてしまうというのが原因。じゃあその原因になるものを発見して、その恐怖をちゃんと味わってしまおうという方法だった。そして、解離は怒りによって引き起こされるというもの。なので怒りを感じた時に、「なんの恐怖を感じたくなくて怒っているのか?」というのを探すことになる。本に書かれていたのは、「見放される恐怖」というのが例としてあげられていた。
でもわたしには「見放される」という言葉では納得がいかなかった。もちろん人によって「愛されない恐怖」とか「無視される恐怖」とか「捨てられる恐怖」とかいろいろあるだろう。わたしには「見限られる恐怖」という言葉がぴったりと当てはまったのでそれを唱えることにした。
なかなか、見限られるなんて言葉を日常で使わないのでどうしてこの言葉が自分の中に出てきたのかはわからない。
ちなみに見放されるという意味で調べると、「これ以上はだめだと諦めて、関係を断ったり助力を辞める」という意味だった。
見限られるは、見放されるよりも少し強い意味あい。同じような内容だけれどもこちらのほうがもっとすっぱりと捨てられる、とういうような感じがしたからこれがでてきたんじゃないだろうか?
とにかく、不快なことが頭に出てきたらこの「みかぎられる恐怖」という言葉を7回、目を開けたまましみいるようにゆっくりと唱えることにした。唱えている間、動作をしないということも気を付けている。なぜなら解離から離脱するための呪文なので、そこに動作を付け足したら(例えば目をつむったまま唱えるとか)その動作が、恐怖からにげるための解離行動と紐付けられてしまうかもしれないと本に書かれていたから。ただゆっくり7回唱える。
最初は唱えるとイライラを覚えた。だって7回唱えると1分はまるでなにもできない。ペンを持った手を止めて、前を見て7回「見限られる恐怖」と唱える。しかも、不快なこと、つまり「今ここ」とは関係ないことを考えている間は唱えていなければならない。なので、ほぼずっと一日中唱えることになった。おっさんの愛以外にも不快なことは出てくるのだ。まったく何も進まない。それが最初の2,3日目の感想だった。
4日目。頭の中が凪いでいる、というか静かになった。ゆっくりとお茶を飲んで窓を眺めている自分がいた。体の中心を、ひんやりとしたでも澄み切ったような空気が流れているのを感じた。時間がたくさんあるということと、自分は万能な人間ではないということに気づいた。一日の間にやらなければならないことを自分で決めて、というか作りそれを時間内にできないことをいつも責めていたのでそれは発見だった。なぜ、時間が限られていて、自分は何でもできると思っていたのか?と思った。恥ずかしかった。
このことをもう少し深堀すると、自分が自分にものすごい期待をしていたことに気づいた。それほどまでに、常に冷静でいられていないということがわかった。そうして、焦る、落ち着かない、何かをしなくちゃいけないようなそんな感覚がない時間が増えたことに気が付いた。
そしてもう一つ。音がうるさいと思うようになった。いつも何かしらテレビやスマホでなにかしらの音をながしていないと気が済まなかった。散歩にでるときも、なにかしら音を出さないと外に出ることができなかった。
音を出すことで、自分の脳内思考から抜け出す、孤独から抜け出す、気を紛らわせることが目的だったのではないかということに気が付いた。
そして、本をちゃんと読めるようになった。今までは焦りから「読んだらいい」という体で読んでいたことが多かった。そして、そこにかいてあることをすべてうのみにし実行し、「なんだ使えないじゃんこの方法。」と、疑うことも考えることもなく手を出しては失敗したとそんなことを繰り返していた。それが、本を読みながら「この考え方ってちょっと違うよね~」とか、第三者目線で突っ込むことができるようになった。うのみにすることが減ったのだ。自分の意見を言えるようになった。いうなれば自我の発達みたいなものなのかも。冷静さを取り戻しただけかもしれない。
体の痛みが一体化したような気もした。いつもはアドレナリンみたいな怒りの力で、具合が悪いとかそんなことがあってもごまかしていた。だから体調が悪くてもどこか、体と気持ちがリンクしていないような感覚。とてつもない痛みに襲われても「邪魔者」としか感じられなかった。どこか、体と感覚の間にぼんやりとした幕が張っていたようなそんな感じ。それが、一体化して感じられるようになった気がする。「体調が悪い自分がここにいる」ただそれだけのことなんだけれども、なんといったらいいのか、体調が悪いんだね、そうそうなんだよっていう一体感。とりあえずそんな感覚。だから以前は体をないがしろにしていたけれども、姿勢とか体重とか外見とか、等身大の自分を見つめて観察をするようになった気がする。久々に、5か月振りくらいに体重をはかったら、体重が3キロも増えていた。やばい。
それから恥ずかしさと申し訳なさが襲ってきた。現実をやっと見ることができ自分がどれだけ失礼な行為を周りにしてきたのかということがわかってきた。反省中である。
周りがおかしいとおもっていたけれども、自分の行動を顧みると自分の方がおかしいということに気づく。それが一番の変化かもしれない。そして、私の周りには敵がいないということがわかった。そう、現実に、目の前には恐怖も事件も何も起きていなかったということに。私はずっと恐怖におびえていたから、どこに行っても誰にあっても怖い、不安を感じて先回りをしてそいつらを回避しようといつも落ち着かなく焦燥感におそわれていた。落ち着きなくね。しかし、実際はなんにも起きていなかったのだ。とても滑稽だと思う。周りから見たら「あの人はいつも焦っているのね。」とか思われているに違いない。それが場の空気を乱し、「変な人」と見られる原因の一つになっていたんじゃないだろうか?焦っているのね。ならまだしも「生意気な」とか「いきりやがって」とか不快に思われていたパターンもある。でもそのおかげで、一人でできることはできるようになったのでそれも失敗の一つではないとは思う。
これを唱えること1か月が経過した。
一か月ほどたつと、やはり効果が薄れてきたと思う。
頭の中の不快な考えは出てこない。体感的に、1日3回くらいしか出てこないような気がする。今はオートマチックに、不快なことが出たりきづいたら「見限られる恐怖」と意識せずに唱える自分がいる。
自分は自分にしかなれないということがわかったのが、一番の発見ではないだろうか?
しかしそれでも、やはり。周りと感じる壁のようなものを感じる。腫物扱い、尊重されているのか?なんだか丁寧にされると違和感を覚える。これは慣れないせいなのか、相手が私に恐怖を抱いて接して言えるのか?と疑ってしまう。私としてはもっと親しくしたい。でも、この距離感が楽で、友達はもっとフランクで、他人はこのくらいでいいのか、と他人との距離感の居心地の良さを感じるようになった。
そういう体験をしていたら、私は他人を今まで「自分に害をなすもの」としてとらえていたということを思い出した。
本当は他人は、いい人なのかもしれないと。今までのことから、他人は自分に害をなす悪者、嫌な人ではないのかもしれないと。私は周りを威嚇してきたが、それはとても滑稽なことだったろう。そう、いつの間にか、できなかった他人をほめるという行為ができるようになった。また、笑顔を作るということもできるようになったのだ。
しかし、同時に「自分は一体どういう人間なのか?」ということがわからなくなった。今の自分は、周りに合わせて笑顔をつくり、いい人を演じている感じ。そう、波風を立てないように生きている、つまらない生き方をしている、私はどういう人間だったろう?と、わからなくなった。そしてそれはストレスにもつながり、もやもやもした。すべては一体感を感じるための行為だったのが、ストレスに変わっていた。また、自分のことを話すとき、きちんと話せない自分がいることも発見した。
私は私のことをよくわかっていない、ということの意味がここでやっとようやくわかった気がする。常に一緒にいる私は、自分のことを考えをちゃんと言葉にして人に伝えることができないのだと。このとき、他人に自分の意見を、考えをいうことに恐怖を覚えていたことに気づくがそれはまた別の話に。まあ、他人が恐ろしく感じているので自分の意見をいうなんてことはしてこなかった、つまり経験不足だろう。
それにしても自分ってどういう人間だ?と考えれば考えるほどわからない。今の自分と過去の自分は大分違うかんじ。猫をかぶっている感じ。本当にそれでいいのか?と思う。そこで思い出した。
次はホルモンの本を読もうと思っていたけれども、順番が変わるが、無意識の本を読むことにした。
意識をしすぎるとわからないので、無意識さんに頼むことにしたのだ。ザ☆人任せ。
それからこれは蛇足だけれども、「見限られる恐怖」を唱えて変わったことで、お金を使わなくなったこともある。もちろん必要なものに使ってはいるけれども、頭のざわざわが減ったので、毎日のように通っていたドラスト、コンビニに行くのをやめた。そして、お弁当をつくるようになった。水筒も。いらないものはいらないと、あるものでなんとかなると思えたから。いつもなら、「これもないと困るかもしれない」という気持ちで買っていた。それが減った。休日のお昼も買わなくなった。
焦りと不安が消えると、すでにあるということに気づくのかもしれない。
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