呪文に出会うまでの話①

ワーク

大嶋先生の本を読んで、いろいろ試しています。

その中で、最近やっている呪文が今まで一番効果があるな、と思ったのがこの本に書かれている内容でした。⤵


これまた個人的解釈を含むので、違うかもしれないけれども、まずこの「トラウマちゃん」の本に行きつくまでに最初にミラーニューロンの本を読んだことが始まりです。


今仕事をしていないので、家にいることが多いのですが、人と会わないと頭の中に嫌な人とか思考が湧いてこないということに気づきました。お金も、働いているときは一定の収入が毎月あり、無職と今とは違い安定していたはずなのになぜかいつもお金がないと不安になり散財を繰り返し貯金をするのが難しかった。

そう、働いているときは常にお金がないという不安に駆られていました。

無職になり仕事を辞めてずっと家にいると、昔言われた嫌なことを思い出したりはするのですが、それがない日もありました。お金に関しても不安がありません。

しかし、買い物に行けば誰かしら、店員さんとかレジの人と顔を合わせなければならない。すると家に帰るとなぜかさっきの店員の態度、表情が気になってしょうがなくなってグルグルと不快な思考に落ちることがしばしば。

そこで気づいたのが「人に会うと嫌な思考になるのは、もしかして自分が原因じゃなくて相手からもらっている思考なんじゃないか?」ということ。今までさんざん大嶋先生の本は読んでいたけれども、わかっているようでわかっていなかった。なので、去年買って一回読んで放置していたミラーニューロンの本を一から読み始めることにしました。

ミラーニューロンとは、相手の脳とつながってしまい相手の感情が自分のものと思ってしまうこと。(簡単に言うと)相手のことを考えるとその人の不快な感情を自分の感情と認識してしまう。例えば、電車の中にいたら急にイライラしてきた!となる。でもその原因がわからない。実はその感情は、自分とは関係ない近くにいる人の感情が自分の脳に流れ込んできたもの。しかし、受け取った自分は、そのイライラが自分のものであると勘違いをするので「このイライラの原因はなんだろう?」と考え始め、そのままその世界へと、思考の世界へと旅立ってしまう。そのうち、過去に起こった嫌な出来事もまとめて浮かんできて「うわー!!」となる。でもイライラの原因は、そもそも近くにいた見ず知らずの人のものだから自分の中に原因を見つけようと思っても見つかるはずもない・・・・。そう、脳を通して操られて、本来の自分ではない状態になってしまうというこわーいもの。らしい。

だから、私のこの買い物に行って帰っああとに沸き起こる不快な感情も、他人からも乗らったものではないか?と気づいたんです。だって、家に一人でいたら、そんなことはなかったから。人にあった後にそうなるということは、他人からの感情をもらっていたのでは?と疑い始めたんです。

とすると、働いていた時に感じていた「お金がない!」というあの焦燥感も、人にもらったものではないのか?と気づきました。そう考えると、上司は睡眠時間を削りバイトをしていたし、お局様は大学に行った息子がいてお金がかかるといっていた。他の人たちも住宅ローンとか、年金がとか、お金の話をしていました。合点がいきました。

なんにせよ、このミラーニューロン、他者から入れられる感情を排除するために、「心よ。」を使うようにしてみた。自分が感じている感情が、自分のものか他者のものかを判断する作業とでもいいましょうか。

しかし、これを何度か使ってみたけれども私にはあまり効果はないように思えた。

なぜなら変わらないという感覚があるし、いつも焦っているような焦燥感と孤立感を味わっているのは変わらなかった。ただ、心に聞いているおかげで、自分には心がついているという自信、いわゆる自己肯定感みたいなものが備わった。たとえば、「なぜ周りの人は私に対して不快な行動をするのだろうか?」と聞いてみると、「それは周りがあなたに嫉妬しているから。」という答えが返ってきて、それで自分に非があるわけではないと納得し安心することができていたんだけれども、なんだかいつも釈然としない感覚でいた。

それは都合のいい考え方で、本来自分が向き合うべきものから逃げているだけの自問自答なんじゃないのか?と。

だって、「心」に聞いてみても、頭の中には不快な人たちが浮かんでくるのだから。そして思考の渦にはまるということを繰り返し収まらなかった。

そこで次に「思考の中和」を唱えることにした。

嫉妬、というワードが心から出てきたので、「じゃあ発作系の本を読もう」とよみました。

よく大嶋先生の本に出てくる発作の話。あれがいまだに理解できなくて(勉強不足)、他人と接して自分がイライラしたらそれは自分が相手に発作を起こしている状態、逆に自分が悪いのだろうか?という感覚になったらそれは相手から嫉妬されている、という内容だった。私はいつも後者で、人に会うたびに自分が劣っているんだと自分責めをしている感覚に陥っては、あれこれと欠点を埋めるためにいろんなものに中途半端に手をだしていた。

だから、自然と「自分責めをしている私は嫉妬されているのだ。」と思うようになっていた。(恥ずかしい!)

しかし、これもどうもおかしい。釈然としない。だって私は嫉妬されるようなすごい人ではないし、むしろいつも馬鹿にされる立場にいたんだから。

周りが嫉妬しているから、自分に対して不快な行動をとるんですね!と無理やり思い込んでみるけれども、いつも感じる孤立感、会話がかみ合わない感じ、アウェー感は消えなかった。それに、なにかミスをしたらその瞬間に突き落とされて息ができなくなるような苦しくなってみんなの前で恥をかくんじゃないか?という恐ろしい感覚もいまだにあった。それでもめげずに、嫉妬されているんだなと自分をなぐさめ相手と会話をするたびに「自分がおかしいんだ」とやっぱり思ってしまう。さっきまで私と話していた人が違う人と楽しそうに話しているのを見ると、「ああ、やっぱり私がおかしいんだよね。あんなふうにスムーズに会話は続かなかったもの。楽しく会話を続けられない自分に欠点がある。」と落ち込んでいた。

そこで試しに使ってみたのが「思考の中和」。


とにかく「人のことが気になる!」と思ったら、この「思考の中和」を唱えることにした。

いつでもどんなときでも。

すると、スーッと自分に戻る感覚があって。気づいてしまった。

嫉妬していたのは自分の方だったということに。これが衝撃的でものすごく恥ずかしいことだった。今での思い返すと穴にはいりたいくらいの衝撃。

嫉妬していたのは私。周りの人たちに対して劣等感を抱いていた。だから負けないようにあれこれすごそうなことを言ってしまうし、聞かれてもいないのに自分のことを話してしまう。これって、相手に負けたくないから、言っていたのかもしれない。子供のころから、機能不全家族だったうちで育って、いつも思っていた。「私はこんな家に生まれて育ったのだから、周りの普通の人に比べて劣っている、どこかおかしいに違いない。」そう、本当にずっとこう思っていた。

普通の家で。家庭で育っていたらみんなのように楽しく学生生活を送ることができるんだろうか?私はこんな家で育ったから、この人たちのようにはなれないんだ、と本気で思っていた。学生の頃は本当にきつかった。社会に出て、たまに自分よりも大変そうな家族の人に会ったけれども、その人が笑っている姿を見て、「なんだ、全然私よりもマシじゃん。」とか本当にそう思っていた。これが、嫉妬だったとは気づかなった。私って、ずっと周りに対して嫉妬と劣等感を抱えていたらしい。

それを、「思考の中和」で気づくことができたんです。

そのことに気づいたことの凪感はすごかった。すとんと腑に落ちた感じ。

「ああ、私はあれこれ頑張っていたのは不安と焦りから逃げるためだったんだな。」と。劣等感バリバリだから、周りに負けないように武器を知識をつけて、馬鹿にされないように背伸びをする生き方をしてきたということでした。

ああ、恥ずかしい、恥ずかしいなんてものじゃない。中二病の時の思い出を暴露されたようなそんな感じ。

とにもかくにも、自分が周りに嫉妬しているということにはきづくことができた。

けれども、いつも心に出てくる嫌な人がいる。気になる人がいる。それは変わらない。

いつも一日一回は必ず出てくる不快な人がいる。どうしてこの人は私の頭の中からでていかないんだろう?これがある限り、自分は自由ではないような気がしていた。だっていつもその人のことを考えて、あれこれと不快な想像をしてしまい嫌な気分ですごすことになる。それに、その不快な人のことを考えるだけでますますその人が嫌な人になってしまい、現実世界で顔を合わせたときにそれが態度に出てしまい、ますます不具合を起こしていくという連鎖・・・。

気にしないようにすればするほど、意識してしまう。

どうしてこの不快な人たちは私の頭の中に湧いて出てくるんだろう?と疑問に思い始める。

そこで次に読んだ本が、「支配されちゃう人達」でした。

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