「笑顔でぶん殴る」
「礼儀でぶん殴る」←(忘却バッテリー第三話「だから、なんだ」に出てきたこのセリフ好き)
この言葉が好きです。
「言いたいことあるならハッキリ言った方がいいですよ。」
このセリフを何回も何回もきくたびに、「私はそんなに不満な顔をしているのだろうか?」とか、「自分の意見も言えないダメな奴」とか言われている気がする。
職場はもちろん、初対面の美容師、付き合いの短い人にも言われることがある。
けれども、私にとっての言いたいことは本音。つまり、言ってはいけない本当のことになる。
だから、本音をいったら人間関係崩壊するのが目に見えるから言えない。(当たり前~)それに、そういわれたから言いましたっていっても、他人が私の失言の責任をとるわけもない。だから、言いたいこと言った方がいいと言われても、それを鵜呑みにせずに言わないようにしてきた。
社交的で、社会に適応とした人なら本音と建て前くらいわかるでしょう?と、そもそもいいたことを本音ととらえることなんてしないだろうと言われそうだけれども。
お世辞とか、うわべだけの話とか意味ある?のと思ってしまうタイプ。めんどくさい人間。
しかし若いころは、言いたいことを言うというという挑戦を何度もしてきた。言いたいことを言おう、そう思って発言、意見をしてきたこともあるけれども、自分が発言をしたところで何にも変わらないことを知ってしまった。
そう、まるで「自分の発言(考えていること)にはなんの価値もない」。たとえ、発言したとしても、「まあ、そういうこともあるよねぇ。」慰められているような、同情されているようなそんな雰囲気を醸し出されるといたたまれなくなる。「こいつ何にも考えてねえんだな。」とか思われるのも怖い。
自分以外の人間が発言した時は「ああ!それはいいね!」とかわざとか?というくらいに褒めちぎるのを見て「・・・・・」と、不満を覚えたこともある。タダの嫉妬です。
また、「言いたいことを言って」相手に不快な思いをさせ、責められたらどうしよう、なんて返せばいいんだろう、周りを敵に回してしまったら?とか、「この人の考え方ヤバくない?」という、ちょっと危ない人、みたいな周りからの評価を気にして言えない、怖くて言えないという理由もある。
けれども、一番の原因は「自分の言葉にはなんの威力も価値もない」と思い込んでいることだと思う。
でも言わないならないで、「あの人は何もしない人」と思われるのも嫌だ。ああ、もう面倒くさい。
一番困るのは、不快な人になにかを言われて言い返せないとき。
ちょっと失礼な態度をとられて不快な思いをしたけれども、気づかないふりをしたり
明らかに馬鹿にしたようなことを言われたけれども、それを相手に確認することもできずに笑ってごまかしたり
そういう、日常でおこる不快なことについていちいち追及することなく、ながしているからどんどん相手の不快行動はエスカレートしていく。
いじめっ子といじめられっ子の関係に似ている。
相手が何も言わないから、どんどん行為がエスカレートする。相手が「嫌だ」とか「やめてください」と抵抗をしてこないから、自分がしている行為が、相手にストレス、傷を与えていることなど気づくはずもない。でも気づいてもやるのは犯罪だよね。性格悪いよね。
けれども、言う勇気がない。言いたいことを言って、「そのくらいで切れるなんてどうかしている!」なんて、不快な人に逆に言われて、「あの人はおかしい」というレッテルを貼られたこともある。相手の方が一枚上で、自分が優位な立場に立つことを常に計算しているように動くこざかしい人だった。こういうのを社交的というのかも。
ムカつく人がいるけれども、真正面から言えない。めんどくさいことになったら嫌だから。(←ここに大きいブレーキ、ヒント、心理的原因がありそうだから深堀したいけどまた今度。)
この原因は、家庭環境が関係していると思う。両親の愛情を得るために、なんでも我慢してきた。やりたくない家事、農作業なども手伝ったし、タイミングの悪い時に頼まれごとをしても引き受けた。言われなくても褒められるためにやってきた。
勇気を出して親に甘えると、弟妹優先で断られた。「幼稚園児か!」と。いや弟なんて私と3つしか違わないけど?と思うけど、病気を抱えている弟妹の方が優先だった。それは、何歳になっても変わらない。
だから、甘えては断られるを繰り返すうちに、もういいやと思うようになるのは当たり前。けれども心の内には嫉妬と怒りが溜まっていく。けれども言えない。そうこうしているうちに
どうせ言っても無駄だろう。
という結論が出た。
親との関係はそのまま社会を通す。
親に対してこう思うのなら、社会に対してこう思うのも当たり前のこと。でもこれは直せる。親に対してはそうでも、親と社会で関わる人間は違う。この癖のような考え方を払しょくするのは大変だけれども、いつかは乗り越えられると信じたい。私も絶賛模索中で克服中。
そんな私が最近しているのは「笑顔」と「礼儀」。
口角をあげるようにした、という記事を前に書いたことがある。あれの効果はどうも抜群で、常に口角をあげていると、自然と周りも笑顔になり親しく話しかけてくるようになった。これはすごい。
たまに、こちらが笑顔でも相手が笑顔で返さない人がいるけれども、それで落ち込むときは「この人は過去の自分」と思うことにしている。それに笑顔になるのもならないのも、自由だし。
一人でいるときも口角を上げるようにしている。それだけで、鬱々とした気分が少し軽くなる。
「笑っている人間が一番強い」という言葉を、どこかで聞いたことはあるかと思う。あれって本当のことなんだなと確信する。目の前にムカつくやつがいても、嫌なことを言われてもニコニコしている人って怖い。「なんだこいつ」って思う。
もちろん、笑顔の下では相手の悪口をさんざん言っている。これが大事。「ああ、こいつバカだな~。」って。
かの有名なひろゆき氏も、「みんな馬鹿」と思っているからこそのあの強メンタル。見習いたい。いつも笑っているような顔をしていて本当に羨ましい。あの笑顔の下で「みんな馬鹿」と思っているんだから、逆に堂々としていてすがすがしい。そりゃ他人のことなんてどうでもいいよね。
私みたいに、コンビニのレジの店員の謎のガン見なんて気にもしないだろう。
とにかく、心の中で悪口を言うのを自分に許した。以前は人のことを悪く思うなんてできなかったから。最近は心の中で勝手に相手の悪口や不満が出てくる始末。悪口を言うのはいけないとかいうけど、今まで思うこともできなかったし、自分に禁止していたのでこれはいい傾向だと思いたい。
そう考えると、悪口を思うことを自分に許したという行為も結構いい。
それから「礼儀」。
礼儀の正しい人に、人は粗末な態度はとれない。取る人もいるけれども、第三者からみて弁護されるのは礼儀正しい方だと思う。
礼儀を通して、敬意を払われていると大切にされていると感じる。
例えば、自分がレジの店員だったとして会計をするときに、商品を雑に置き、タメ口で「袋」とだけ言う客と
丁寧に商品を置き、「お願いします」という客。
どちらに大切にされている気がするだろうか?
礼儀は裏切らない。
遅刻をしない人が一日遅刻すると心配されるが、いつも遅刻をする人は心配されない。「またか」と思うだろう。
礼儀といっても、90度のお礼をしようとか、三つ指をついてとかそこまでかしこまったものでなく、①目を見て話す
②最初と最後に挨拶をする
③あったときに会釈をする
④してもらったことに関して感謝する(ありがとうというだけ)
とか、それくらいでいい。
まあ、最近まで①と③ができてなかった自分が偉そうにいうことでもないが。これをするようになったら各段に生きやすくなり、人に親切にされるようになった気がする。マジで。あと、あまり周りの人のことを気にしなくなった。(これは呪文の成果も)
けれど今更こんなことに気づく私ってどれだけ世間?知らずなんだ~
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