我慢を続けると、痛みに鈍感になり、または麻痺をしていくというのは知られていることだと思います。
仕事を辞めて、無職になり「何もしたくない」・・いや、「できない」「怖くて動けない、前に進めない」という状態が続いていました。
ここ一か月ほどのことです。
職業訓練を終えた後、3か月以内に就職するというのが一応条件になっているので「動けない」「怖い」という状態で就職活動をすることもできず、毎日パソコンで求人情報を見るということだけつづけていました。
しかし、見れば見るほどなくす自信の方が強く、結果苦しくなって途中でパソコンを閉じるということを繰り返していました。「条件がいいのがない」「家から遠い」「入ったあとまたパワハラみたいな状況になり孤立したらどうしよう」それが一番怖くて怖くて、先のことを考えるともうどうしようもなかったんです。
ハッキリと、ハロワの人や訓練校の人などに「精神的にダメージを追っているので仕事を探すという精神状態ではない」と告げればどんなに楽なのだろう思います。しかし、長年の経験から、そういうと「なにを甘ったれたことを言っているのか」「仕事はこんなにたくさんあるのに」など言い訳に捉えられることが多かった今までの経験上、「誰にも相談しない」ことが一番だとわかっていました。
精神的なものは外見だけではわかりません。
本当の痛みを知っているのは当人だけです。
周囲はわかりません。同情したり共感したりしてくれても、真に自分と同じようにわかってくれる人はいません。
こちらが話さない限り、家庭背景だって知りえません。
話したからといって、100パーセントわかってもらえるか?というと、同じような体験をしたことがある人、または専門の先生以外それはないと思います。
逆に言えば、それでもつらいことを乗り越えて笑顔で振舞っている本当に大変な思いをしている方も世の中にはいらっしゃいます。そういう人たちにものすごく、失礼ですが憧れます。自分もそうなりたいと思っていましたが、どうしてもかすみたいなこびりついた暗いものが体の中にあるので、「笑う」「楽しそうにする」というのはできません。先に笑顔になれとは言いますが、できないんです。今はまだ。
自分が感じている辛さは骨折レベル、しかし周りから見たら打ち身程度の状態にしか見えないのかもしれません。もしくは、たんすの角に足の小指をぶつけた程度の話、と思われることもあります。(十分痛いですけど)心当たりがあるかもしれませんが、その逆で、「大丈夫」と言っていた方が急に倒れて病院に運ばれる・・なんてことも、あります。
何が言いたいかというと、結局自分を知っているのは自分だけ、なんです。
もっというと、自分を助けられるのは自分だけなんです。
辛さや生きづらさ、苦しさを感じると、「どうしてみんなは当たり前のようにできているのに自分にはできないんだろう」と考えることがあると思います。真面目で責任感の強い方ならなおさらそう思い、さらに自分に我慢をさせるという悪循環に陥ることもあると思います。
けれども、他人と自分の心の強さ、ものの考え方、家庭環境、その他背景諸々全く同じではありません。
私は昔から、弟の不登校により両親が、特に母親が朝から泣きわめいたりまるでこの先不幸なことしか待っていないというような思いにかられ不安を原動力にして生きてきました。
「私がお金を稼いでちゃんと貯めないとみんなを助けられない」
そんな思いで仕事を続け、うまくいくはずがありませんでした。俗にいう、「いい子」を演じていたのでストレスもたまる一方でした。
職業訓練後、全くも無気力になってしまい外に出かけることも買い物にいくこともできず、大好きな読書をすることもできませんでした。食欲も落ちましたし、今思うとちょっと鬱状態だったのだと思います。
なぜ、こんな話をしたかというと、この鬱状態から回復するのに時間がかかったからです。
期間としてはたかだか一か月、しかしまるで3か月は経ったのかというほどに時間が経つのが長く感じられました。「このまま働けず、動けず、家からでられなくなったらどうしよう。」と思いました。寝ても夜中に目を覚ましそのまま眠れなくなり、朝方まで起きているという日もありました。
回復に、とても時間がかかりました。
だから、早い目に、「限界だ」と感じたら、なんでもいいから早く休んだ方がいい、自分に優しくしてあげることが大切だと思いました。
誰も、責任はとってくれない。苦しむのは自分です。
本当の痛みを知っているのも自分です。
苦しんでいるのは自分です。
後で書きますが、私がこの鬱状態から抜け出せたのは、大嶋先生の恐怖に対する呪文「見限られる恐怖」を「受け入れる恐怖」に変更したことが関係しているかもと思います。
この呪文を唱えて思ったこと。
なにもできないなら、なにもしないをしよう。
そう決めて、なにもしないし、意味のあることもしない、一か月は遊ぶことだけしよう。それ以外はなにもしない、と決めて本当に何もしませんでした。(と言っても何もしないって結構ハードルが高い。ついつい何かをしているんですよね~)
漫画を読んだり、アニメを見たり本当に現代はコスパよく様々なものを見られるのですごいです!外は出るのが怖いので、ドライブをしたり。(車から降りなくて済むので)欲しいものはネットで届きます。なんとなく人間関係が面倒だった習い事も「休みます」といって顔を出さないようにしました。テスト勉強も、嫌な記憶が出てくるのでこの際辞めました。
とにかくストレスを減らしました。
そんなこんなをしているうちに、朝の散歩がしたくなり散歩をして三日後あたりに、不意に歌が歌いたくなりました。
ボイトレに通っていたので、それまで憂鬱だったのですが(授業料がもったいないし先生が前向きな方で元気をもらえていたので休むという選択はありませんでした)、動画でカラオケを流して歌いたい曲を流して歌う、ということをしているうちに楽しくなってきました。
そのあともダラダラとサブスクでアニメを見たり、本当に今までの自分からしたら「なにもしていない」ただの娯楽を楽しむ日々。
そして現在。
最近は、求人情報を見ても前ほど「嫌だな」と思うことが減りました。
仮に、パワハラ野郎が出てきても「辞めてまた違うところにいく」という、逃げるという選択肢を自分に許すことができてきました。
恐怖の呪文「受け入れる恐怖」ですから、「どんな自分も受け入れる」ということなのかもしれません。
「逃げる」ということを、自分に許しました。
私の中で「逃げる」=「弱者」でした。
結局、自分に優しくできない理由って、「自分を許す」ということができないからだと思います。
こんなことにも耐えられない、弱い自分。
朝、会社に行くのが億劫な自分。
みんなのように、笑顔で周りとなじめない自分。
そういう、自分の理想と現実のギャップを認められない人が、精神的に参ってしまうというのが鬱の原因だそうです。だから、大嶋先生の呪文で作った「受け入れる恐怖」でありとあらゆることを受け入れてしまう。あれもこれも、そうだったなぁと。
最初はとてもきつかったです。呪文を唱えるたびに湧き上がってくる過去の不快な出来事が本当に次々と休みなく襲い掛かってきてしんどかった。
どうしてこんなにたくさん、昔の嫌なことが出てくるんだろう?呪文を間違えているのかな?と最初は思いましたが、やっぱり腑に落ちるのはこの呪文で・・・。あきらめずに続けていくうちにだんだんと慣れてきました。そのうち、受け入れるというよりも「自分を許す」という方向に変わっていった気がします。そして感情も。
「ああ、あの時そうおもったんだよね。それはそうだよ。」と。
「今ムカついている。それはそうだ!あんなこと言われたんだから!」と。
これを繰り返すうちに、最終的に「受け入れなくていいものは受け入れない」という判断に行きつくということもありました。
例えばレジで店員に雑に対応をされた、と思ったけれども、呪文を唱えると「本当にムカついた!けれどもどうして私があの店員のことを受け入れないといけないの?」と何でもかんでも受け入れなくてもいい、ということがありました。
物事をすべて真面目に受け止めて、自分事にしていた癖があったのでなぜ、第三者のしかも今日あったもう会わない人のことをわざわざ受け入れないといけないのか?という、物事を俯瞰してみるということができたのかもしれません。
痛いのは痛い。
辛いのは辛い。
苦しいのは苦しい。
すべてオールオッケー。
自分中心で行きましょう。手遅れになる前に。
自分を救えるのは自分だけ、自分を知っているのは自分だけです。
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