笑えない時期のすごしかた

日々のこと

4月ですね。

昨日本屋に行きましたら、新しい学校の教科書を親御さんと買いに来た学生さんたちがたくさんいました。

お祝いとして誰かにあげるのか、レジで図書カードを買い求める人も。

キラキラした目で、印鑑ケース、自分の名字のハンコを選んでいる女の子もいました。

新しい生活に向けて、準備をしながらワクワクをした気持ちを抱えている人たちの光景を見て、その空気を感じることでわたしの足取りもなんだか軽かった。

一方で、不安と恐怖を抱えている人もいると思う。

自分が子供の頃、この時期いつもどうすごしていただろうかと思い出してみるけれど記憶がない。

少なくとも、楽しい、とかそんな気もちはなくどちらかというと新しい何かを迎える、みんながそわそわしているこの空気が嫌いだったほうだ。

人間だれしも、下り坂はあるものだ。

わたしなんて実に弟が生まれてから特に下降の一途をたどっていた。

気づけば弟を、家族を恨みそのきもちを引きずったまま今に至る。長いものでもう30年はひきずっているんじゃないだろうか?自覚できない期間も含めて。

人を恨む。妬む。

楽しめない。羨ましい。ダメ人間。

心の中で負の感情が渦巻いていた。

長い人生の中で誰しもそういう時期がある。

それは仕方がないこと。

この時期、わくわくうれしい気持ちになれなくてもしょうがない。だって今はそうなれないんだからしょうがない。

自分がおかしいのだろうか?なんて、自分を疑う必要もない。

バイオリズムっていうのがあって、あがりさがりを一定の周期で繰り返しながら人間って生きているのだから、それの下にいるだけ。一日楽しい気分をずっと持続することは難しいでしょう?

(フランス人は気分が落ち込んでいる日は「今日はアンニュイな日なの。」とオシャレに言っちゃう。国民性ですよね。日本では「今日は鬱っぽい」というけれども、どちらかというアンニュイの方がなんだかオシャレで希望がありません?)

まあその状態が、一か月なのか1年なのか10年、もっと先かもしれないけれども上がるときが来るので今は下降中なんだなぁと、ドンと構えていればいいだけ。慌てずゆっくりとお茶でも飲みながらまったり観察しているしかない。

いきなりだけれども私は10年前から笑うことが怖くなった。

馬鹿にされるんじゃないか?否定されるんじゃないか?

その逆で、「どうしてお前らにへらへらしなければならないんだ!」という気持ち。

そんな思いに支配されながら、人に接する仕事を10年もつづけてきた。

そんな私のことを周りがなんて言っているのか、評価していたのかはしっている。

「不愛想」「愛想がない」「かわいげがない」「冷たい」「薄情」

とくに男性はそういっていた。

私の態度が気に食わないのもあったでしょう。

しかしそれが原因でますます私の自己肯定感は地に落ちた。

そんな人たちに悪口を言われ傷ついた私は。悪口を言われないようにあれこれ努力した。無理して。

そうしたらどうなったのか?わかりますよね?

演じることに疲れた。自分は一体何をやっているんだろう?とふと思うようになった。

心の限界が近いなと感じた。(食欲がない、目がうつろ、抑うつ感、不眠)

いつのまにか、誰かに、周りに「笑顔にならないといけない」というプレッシャー、暗示をもらっていたみたい。

それがあり、ますます笑顔になることに抵抗があった。

笑えないときに無理して笑うと、ちゃんとお返しが返ってくる。自分に。

あなたが今笑えないのは、あなたの心があなたを守るためにしていることだから、笑えないことにあなたの責任はないということを知ってほしい。

笑えないことにより、笑わないことにより守られていること、メリットがどこかにある。

今はわからないと思うけれども、いつの日かわかるときがくる

人生は、長い長い答え合わせをしているようなものだと、知人と話をしたことがある。

「あの時はわからなかったのことが、やっとこの年になってわかった。あのときのあの出来事はああいうことだったんだな。」と。

それでも笑えない自分に罪悪感を感じて、笑わないと、笑顔にならないと!と思うならこれをしてほしい。

口角を上げて過ごす。

脳は単純なので、口が笑顔の形をとっているだけで脳はこう思う。

「わたしは笑っている。」と。

コメント

タイトルとURLをコピーしました