仕事でミスをしたとき
「大丈夫?そんなに気にしなくても大丈夫だよ。」
と、あまり話をしない、そんなことを言わないような人に声をかけられたとき。
一人でポツンといるときに話しかけられたとき。
「一人で可哀そうとか、思われているのかな?」とか考えてしまうのが癖です。
「この人がが私に声をかけてきた理由ってなんだろう?私のこと馬鹿にしている?それとも一人でいて惨めに思って情で声をかけてきた?」
そんなことを想像してしまって、いつも「大丈夫です。今度から気を付けますから。」とか。
「今忙しくて、ごめんなさい。」とか。
言い訳、言い訳、逃げる逃げる・・・。そんなことを繰り返していた気がします。
なぜなら、それらの言葉をそのまま肯定してしまったら本当に私がみじめな人になってしまうような感覚と、人に情をかけられるような弱い人間として周りに見られているんだということを認めることになるからです。(逆にいうと、そういう人間だということを認めたくなかったということですね。)
声をかけたほうから見たら、かわいくない人。二度と声をかけたくないと思います。実際、そうなりましたしね。
いちいち言われる言葉を否定して、「私はそんな人間じゃないんです!」って一生懸命否定し続けてきました。
そして言い訳したあとに、なんであんなこといっちゃったんだろう・・って一人落ち込むことの繰り返しでした。
そんな過ごし方をしてきて、大嶋先生の本を読んで考えた私なりの呪文、「見限られる恐怖」を唱え続けていたら、なんかもういいかーと、人からどう思われているのか?とかそういうのを気にしなくなりました。
そうしたら、何が起こったか?
疲れないんですよ!
いちいち言い訳して、否定してっていう言葉のやりとりがないからそれで会話が終わる。
「ありがとうございますー。」なんて言ってさよならして終わり。楽ですよね。
なぜこう思えるようになったのかというと、相手がどうしてこんな言葉をかけてきたのか?と、相手の気持ちを考えるのをやめたから=他人のことを考えることをしなくなった、からだと思います。
その体験をしたときに、なんて今まで無駄なことをしてきたんだろうって実感しました。明らかにおかしい攻撃的なことを言われたら、それはさすがに否定すると思いますが・・・今のところまだ出会ってません。
今まで、人の気持ちをものすごく考えてきました。
それっていいことじゃない!気を遣えて!と思われるかもしれませんが違います。
私の場合の人の気持ちを考えるは
「不機嫌な顔をしていた・・・きっと私のなにかが気に入らなかったんだろう。」
「挨拶を返されなかった。挨拶の仕方が悪かった?声の出し方?高さ?私のことが嫌い?」
などなど、本当に相手の気持ちを勝手に想像するということです。
それが減ったので、現実のみが真実になり、勝手に妄想してあれこれとストーリーを考えるのをやめました。
それに相手の言葉を否定せずに受け止めることで、相手との親密感が増しますよね。気を使っていった相手も「言ってよかった。いいことした。」とか満足してくれれば不満は残りませんしね。
相手の気持ちを考えなくてすむってこんなに楽なことなんですね。
なんだか、本当に今までの人生損をしてきた気がして疲れました。これに気づけたのが今の年齢でよかったのかなんなのか・・・、今の年齢が私にとってのベストなタイミングだったとおもうことにしたいと思います。
人間は、一生気づけないなにかに気づかないまま一生を終えることもあるといいます。
「あの人はずっとあのままなんだろうな。」とか誰かが言われているのを聞くたびに、自分はそうならないようにしようと思う。けれども、それがわからない。
それに、直そうと思っても直せないものもあります。あ、これも言い訳かな(笑)
それら全部ひっくるめて自分なんだなと、そしてそんな自分の欠点こみでなかよくしてくれる、付き合ってくれる人達って貴重なんだな、器が大きいんだなと感じました。
早く普通の人間になりたいなぁ。
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